モニカ・ゼタールンド(Monica Zetterlund)

スウェーデンでもっとも有名な女性ジャズヴォーカリスト、モニカ・ゼタールンドは、西スウェーデンのウェルムランド地方の深い森に囲まれたハーグフォッシュ(Hagfors)に1937年に生を受けた。モニカの父はアコーディオン奏者である上きわめて熱心なジャズファンで、そんな父から彼女はジャズへの情熱を受け継いだ。幼くして、父が所有するビリー・ホリデイ(Billie Holiday)やエラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)らのレコードを聞きこみ、それらの歌詞を記憶していった。14歳になると、ヴェルムランドやその近隣地域で、父のステージでは傍らで歌うようになった。1957年、ストックホルムの有名ジャズクラブ、ナーレン(Nalen)で開催されたコンテストでモニカは2位となり、それがきっかけで、翌年には「Swedish Sensation」というLPをリリースした。そしてさらに翌年、モニカのパフォーマンスがスウェーデンジャズ界の巨匠 アーネ・ドムネールス(Arne Domnérus)の目にとまり、その歌唱力に惚れ込んだ彼によりピックアップされることとなったのだ。スウェディッシュ・ジャズの先駆者でもあるアーネは、当時すぐれたバンド・リーダーやサックス・プレイヤーとしてリスペクトを集めていたので、言うまでもなく彼のサポートは、モニカのキャリアを大きく後押しするものとなった。

アーネとの仕事がスタートした2年後、モニカはアメリカツアーに乗り出す。このツアーで彼女は、ジャスが生まれ、そして幼い頃からの彼女のヒーローたちが活躍する世界を垣間見ることとなった。トランペット・プレイヤーのサド・ジョーンズ(Thad Jones)とレコーディングを共にし、ジャズヴォーカリストのナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)と交友関係を結んだものの、アメリカでは本当の意味で居心地の良さを感じることができず、結果、1961年に帰国することとなった。

スウェーデンへと戻ったモニカは、演技を学ぶため、一次的にではあるが突如ジャズシーンから退いた。演劇の学校では、俳優や作家としてスウェーデン国内では伝説的な存在でもある故ベッペ・ヴォルゲシュ(Beppe Wolgers)との出会いが待っていた。ベッペは、映画「長くつ下のピッピ」で主人公ピッピの父親役を演じたことでも有名な人物だ。彼はモニカにとって極めて重要なクリエイティヴパートナーとなり、彼女に多くの歌詞を提供することとなった。ベッペが提供した歌詞の多くは、典型的なアメリカのジャズソングにつけたスウェーデン語の歌詞だった。たとえば、デイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck)の「Take Five」に歌詞をつけた曲「I New York」(“ニュー・ヨークで”の意)などがある。ベッペがモニカに提供した曲の中で最も有名なのが、ニック・ルーカス(Nick Lucas)の「Walkin’ My Baby Back Home」をストックホルムを舞台にリメイクした曲「Sakta vi gå genom stan」(“ぶらり街歩き”の意)。この曲はスウェーデンで最も知られているモニカの曲で、ストックホルムの最高のサウンドトラックと見なされているほどの名曲だ。この曲は、最近のヒップスターにも、そして彼らの祖父母らの世代にも、いろんな世代を通して愛されている。あるいは、この曲がもたらした最も重要なこととは、曲がリリースされた1960年代に、スウェーデン人がスウェーデン語でジャズを歌うことができる、ということを証明したことではあるまいか。

ベッペ以外にも、1962年にモニカはスウェーデンのコメディ・デュオ、ハッセ・オ・ターゲ(Hasse Å Tage :“Hasse と Tage”の意)と仕事をするようになった。この有名デュオは1960-70年代にスウェーデンで最も成功したコメディアンで、彼らとのコラボレーションによって、ようやくモニカの役者としてのキャリアが動き始めたのだ。ハッセ・オ・ターゲと共に、モニカはナイトクラブ等でのレヴューショーや映画などに数多く出演している。出演した作品の中には、モニカが主題歌も手掛けたクラシックな映画「Att angöra en brygga」などがある。モニカをヴォーカリストとしてスターとせしめたものは、言うまでもなくそのカリスマ性とヴォーカルのスキルだ。彼女は曲中の言葉をきわめてデリケートに解釈し、ひとつのセンテンスを同時にメランコリック、官能的、そしてユーモラスに表現することができるのだ。彼女の声は極めてスムーズで、曲に合わせて深みを増すこともあった。スウェーデンでの彼女は“音楽のグレタ・ガルボ”のような人物で、時には大物スターとパーティで踊り明かしたり、世界中を旅したり、パリではマーロン・ブランドにチャチャを教わったり、いわば、誰もが羨むような現実離れしたスターなのだ。ジャズヴォーカリストとしてのキャリアも華々しく、ルイ・アームストロング、ナット・キング・コール、ビル・エヴァンス、スタン・ゲッツ、ハリー・ベラフォンテ、そしてクインシー・ジョーンズといった錚々たるメンバーと仕事を共にしている。

モニカは数多くのレコードをリリースしてきた。中でも最も有名なのは、彼女自身も一番のお気に入りとして挙げる1964年のビル・エヴァンスとの共作「Waltz for Debby」だが、もっとも多くを売り上げた作品は1991年リリースの「Varsamt」だ。しかし、当時は悪化の一途をたどる脊柱側彎症のために公の場に姿を現す機会が徐々に減っていった。この病気は若い時の落下事故の後遺症で、晩年に車いす生活を余儀なくされたのは脊柱側彎症によるところがきわめて大きい。彼女の人生最後のパフォーマンスは、イスに座ったままで行われたのだ。

しかし、モニカの命を奪ったのはこの脊柱側彎症ではなかった。2005年5月12日、ストックホルムのビルゲル・ヤースガータン通りにある自宅アパートがまさに不運にも火災に見舞われたのだ。ベッドでの喫煙が原因とされる不幸きわまりないこの事故は、あまりにも早く彼女をこの世から連れ去ってしまった。享年67歳。死後、ヴァーサスタンの北東側のかつてモニカが住んでいたアパートの近くにある小さな公園が「Monica Zetterlunds Park(モニカ・ゼタールンドの公園)」と名付けられた。モニカの遺作は、2000年に自宅のリビングルームで録音された「Bill Remembered: A Tribute to Bill Evans」だ。
(Text: Gustaf Kjellin)

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